リノアの眉がかすかに動く。クラウディアはゆっくりと頷いた。「ああ、だがその意味を完全に解き明かした者はいない。ただ、私が幼かった頃、一度だけ森が弱ったことがあった。その時、人々は村を護るため儀式を行い、結果的に森は持ち直した。しかし……今回の異変はあの時とは何かが違う。より深い、より根源的な力が関わっているような気がしてならない」 クラウディアの言葉は広場の静寂の中に染み渡り、リノアとエレナの背筋を冷たいものが這うように震わせた。「根源的な力?」 リノアの問いかけに、クラウディアの表情が一瞬だけ険しくなった。彼女は低く静かな声で応えた。「そうだ。生命力を凌駕した、もっと古く深い力……」 クラウディアの視線が遠くの森へと向けられる。その瞳には、一種の畏敬と懸念が混ざり合っていた。「森が泣く──その時、私たちは選ばなければならない。自然と調和する道を進むのか、それとも破壊の道を辿るのか」 クラウディアの言葉に込められた重みが、リノアとエレナの胸に深く響いた。「つまり、その『根源的な力』が異変の原因かもしれないということですか?」 エレナが小さく息をつき、慎重に口を開く。「恐らくな」 クラウディアは一瞬黙った後、ゆっくりと頷いた。「私たちはそれを見つけます。森の声を聞き、その答えを必ず探し出してみせます」 そう言って、リノアはエレナと目を合わせた。「シオンの死がその始まりなら、お前たちが見つけるしかない。シオンと関係の深い、お前たちなら、きっと遣り遂げることができるだろう。リノア、エレナ、私はお前たちの勇気を信じている」 クラウディアは微笑みながら二人の決意を受け止めるように言葉を返すと、静かにその場を後にした。クラウディアの背中が霧に溶け、広場の静寂と共に消えていく。 森の奥から風が吹き抜け、冷たい空気が二人の頬を撫でて行った。まるで森そのものがリノアとエレナの決意を確かめるように。「根源的なものって何だろう……」 リノアがふと呟いた。その言葉は空気に溶けるように静かだった。「森の奥に行ってみようか。シオンがいた場所に何か手がかりが残っているかもしれない」 エレナは広場の端に目を移した。 森の奥深くに足を踏み入れることは殆どなかった。森の植物は十分に育ち、薬草を採るにも奥まで入り込む必要はなかったからだ。行く人と言えば、森
リノアとエレナは広場を離れ、森の北の小径へと続く道を歩き始めた。まず向かう場所はシオンの研究所だ。 シオンは村にとって有用な研究を行っていた。村の歴史や伝統だけではなく、自然と科学を融合したものまで多岐に亘る。シオンは多才な人だった。 シオンが残した足跡は、この村だけでなく森そのものにも深く刻まれている。村に生息する動植物の生態系についての深い知識を持ち、その鋭い観察力と独自の視点から新たな発見を生み出していた。特に苔や菌糸に対するシオンの造詣は驚嘆すべきものだった。 苔が水を蓄える仕組みや菌糸が森を豊かにする役割について、シオンが語る様子をリノアはよく思い出していた。シオンはただ知識をひけらかすのではなく、森や自然の美しさ、そして、それらがいかにして命を繋いでいるかを人々に教え、分かち合っていた。「森の声に耳を澄ませるんだ」 シオンは子どもたちや若者たちにそう言って微笑んでいた。その教えはリノアの心の中にも深く根付いている。そして今、シオンがいない村でシオンの言葉がどれほど重みを持つか、リノアは改めて感じていた。 リノアは霧の中を見つめ、胸に抱える思いを整理しようと試みた。 シオンが森の異変に気付いていたことは、シオンの記録や話の端々からも明らかだ。そのシオンが抱いていた憂いと覚悟……。 森が何かを伝えようとしている——その確信がシオンにはあった。しかしシオンが森の異変に対してどのようなアプローチを試みていたのか、その全貌はまだ明らかにされていない。 現在、シオンの研究ノートはエレナの手元にある。しかしエレナはまだそのノートについて詳しくリノアに語ったことはない。ノートに記された難解な数式や図形、断片的な文章——それらが森の異変とどう関係しているのか、エレナ自身も完全には把握しきれていないからだと思う。 リノア自身もシオンの研究ノートに記された内容について、特に関心を示すことはなかった。 シオンが生きている時、シオンの熱心な研究を尊重してはいたが、森に深く足を踏み入れることは避けていた。森は特別な領域であり、リノアにはそれがどこか神聖なもののように感じられていたのだ。しかしシオンが亡くなったその瞬間から、シオンが愛し、そして守り続けた森の存在がリノアの胸に大きな影を落とした。 静かで温かなシオンの声がもう聞けないという現実の中で、リノア
朝霧が地面を覆い、足元の苔が湿って柔らかい感触を返す。靴が石を踏むたびに、かすかな水音が響き、霧が膝下を這うように漂った。道の両側には畑が広がり、その向こうに森の輪郭が霧にぼやけている。 風が冷たく吹き抜ける中、リノアはシオンの形見である木彫りの笛を手に持ち、指先に力を込めた。笛の表面に刻まれた細かな模様がリノアの肌に冷たく食い込む。 あの時の村の若者たちの悲痛な声。それがリノアの耳に残響のように残っている。確かに森が弱ってしまったら、私たちは、もうこの地で生きて行くことはできないだろう。「クラウディアさん、本当は何か知っているんじゃないかな……」 リノアの息が白く霧に溶け、木々の間に漂う。 リノアの脳裏に浮かぶのは、クラウディアが去っていく姿だった。杖の先端が地面に触れる音が辺りに響き、霧の中へ消えていく後ろ姿。鋭い瞳には、どこか深い思案の影が宿っていた。それが妙に心に引っかかる。「あの言い伝えにある『災い』というのが気になるよね」 エレナが薬草の袋を肩にかけ直し、霧の中を見据えて言った。霧が森の奥へと広がっている。その深みへ吸い込まれるようにエレナの視線が固定された。 エレナは腰に弓を携え、背中には矢筒をしっかりと括り付けている。エレナの弓術は村でも一目置かれており、危険な状況や狩りの場で何度もその腕前を証明してきた。それはエレナの自信と冷静さを支える柱でもあった。 エレナは肩の薬草袋を背中に押し上げると、霧の向こうに向かって歩を進めた。エレナも森の奥に潜む何かへの警戒心が徐々に膨らんでいるようだ。 災いか……。 リノアはその言葉を聞いて胸の奥がざわめくのを感じた。 もし災いが起きたというのなら、シオンがその犠牲者だということなのだろうか? そんなはずはない。シオンは森を愛し、守り続けてきた存在だ。シオンが自然の怒りを買うはずがない。 霧に包まれた小道の両側にはぽつりぽつりと家が建っている。その静かな佇まいは日々の営みの平穏さを物語ったものだ。 この付近の人たちが騒いでいるところを見たことはない。ということは、問題が起きている場所は森の奥深くというのは合っている。まだ危機は村には迫ってはいない。「問題が起きているのは森の奥深い場所。まだ村そのものに危機が迫っているわけではないみたい。だけど時間は限られているんじゃないかな」 リ
リノアは幼い頃、初めて自然の声を聞いた。それは母親と一緒に森を訪れた日のことだった。森の奥深く、陽光が木々の隙間から柔らかく差し込む場所で、リノアの母はリノアの手を引きながら歩いていた。「リノア、ここで少し待っていて。お母さんが戻るまで動かないでね」 母の声は優しかったが、どこか切迫した響きを帯びていた。母はリノアを太古から存在するオークの木の根元に座らせ、膝に手を置いて微笑んだ。「お母さん、どこに行くの?」 リノアが尋ねると、母は首を振って答えた。「すぐ戻るから、ここで待っていて。約束だよ」 そう言って、母はリノアに背を向け、木々の間へ消えていった。背中が遠ざかるにつれ、リノアの小さな胸に不安の波が寄せ始めた。 リノアはその言葉を守り、静かに待ち続けた。 太陽が少しずつ傾き、森に長い影が伸び始める。オークの木の根はごつごつしており、苔の柔らかな感触が彼女の手をくすぐった。 鳥のさえずりが遠くに聞こえ、心地よく感じる。しかし母が戻って来ないことで、リノアの心の中に不安の感情が芽生え始めた。「お母さん、どこ?」 リノアが小さな声でつぶやく。 涙がこぼれ落ちそうになるのを必死にこらえながら、リノアは周囲を見回した。森は静かで、ただ風が木々を揺らす音だけが響いている。母の気配はない。「お母さん!」 我慢しきれず、リノアは立ち上がり、母が消えた方向へ駆け出そうとした。その瞬間、耳元で声が響いた。 「リノア。まだ、ここにいた方がいいよ」 驚いたリノアは足を止め、辺りを見回した。「誰?」 姿が見えない。風の音と川のせせらぎなど、自然の音だけが聞こえる。 聞いたことのない声だ。だけど温かくて、どこか懐かしい響きがする。「もう少しだけ、ここにいて」 声が再び森に響き渡った。姿は見えないが、確かにそこにいる。リノアは目を細めて周囲を見回したが、やはり何も見つけることはできなかった。「どうして? お母さんのところに行きたい」 リノアが訴えると、声は静かに答えた。「ここにいたら安全だから。僕たちが君を守ってあげる。お母さんも心配しなくて良いよ」 その言葉にリノアは不思議な安心感を覚え、彼女は再びオークの根元に座り込んだ。 目の前には小さな川が流れ、水面が陽光を反射してキラキラと輝いている。 リノアは手を伸ばし、水にそっと触れた。ひ
「何、あれ?」 リノアは立ち上がって、目を凝らした。 何が起きているのか分からず、リノアは遠くに見える孔雀のように美しく燃える炎を見つめていた。 火の粉が空高く舞い上がる。やがて、その一部が森の木に飛び移ると、次から次へと炎が燃え広がり、見渡す限り一面の炎となった。 木々の隙間から熱風が吹き込んでくる。周辺の木々が一つ、また一つと炎に包まれ、リオナの逃げ道を狭めていく。 炎と煙の壁がそびえ立ち、それらがゆっくりと近づいてくる……。「熱いよ……」 リノアは動くことができなかった。煙で息が苦しくなり、熱が肌を焼く。恐怖が彼女の心を支配した。「お母さん……助けて……」 小さな声で呟くが、誰も助けに来てくれない。「お母さん……」 諦めそうになった瞬間、再びあの声が聞こえた。「大丈夫だよ、リノア。僕たちがいるから」 突然、強風が吹き荒れ、炎が龍のように渦を巻いて上空へ舞い上がった。 空が暗くなり、大粒の雨が大地を叩く。「あっ、雨だ!」 まるで自然がリノアを守るかのように雨が彼女を包み込んだ。 炎が消え、煙が薄れていく。濡れた髪が頬に張り付き、リノアはその場に呆然と立ち尽くした。「リノア、僕たちを感じて。僕たちもリノアと共にあるから。その気持ちを忘れないで」 声が優しく心に響いた。 リノアは心の中でその言葉を繰り返し、そして言葉を発した。「うん、わかった」「でも気をつけて。僕たちの声が届かなくなる時が来るかもしれないから」 風がリノアの髪を撫で、そっと飛び去った。 リノアは母の言いつけの通り、母が戻って来るのを待ち続けた。しかし太陽が沈み、森が闇に包まれても母が戻って来ることはなかった。「どこに行ったんだろう……」 リノアは膝を抱え、オークの木にもたれかかった。リノアの呟きは風に溶け、自然の音だけが静かに寄り添った。
リノアの人生は、あの森の火災から大きく変わった。彼女は自然と深く結びついていた幼少期の記憶を胸に日々を過ごしていた。 木の窓から差し込む陽光がリノアの小さな部屋を優しく照らし出す。 村の外れに立つこの家は、母と暮らした思い出深い場所だ。今はリノア一人で住んでいる。 壁に掛かった古びた織物や床に散らばる干し草の匂いが、過去の記憶を静かに呼び起こす。だが、その記憶はいつも途中で途切れてしまっていた。母が森で消えたあの日の情景で、いつも止まってしまうのだ。 母が森で消えたあの日の記憶は、いつも霞がかかったように曖昧だ。その記憶の断片に触れるたび、まるで目の前に現れる扉が突然閉じられるように、心の奥底で何かが引き裂かれる。 あの母の柔らかな笑顔と森の風の香り——そこから先を思い出そうとすると、心の中に冷たい静寂が広がってくる。 リノアはベッドから起き上がり、窓の外を眺めた。 朝の光が村の屋根を金色に染め、遠くからは井戸端の笑い声と手押し車のきしむ音が聞こえる。風に乗って運ばれてくるパンを焼く香ばしい匂いが、リノアの記憶をさらに揺さぶった。しかし、それでも「今」と「過去」の間に横たわる深い溝を埋めることはできない。 リノアは水瓶から水を汲み取り、その冷たさを喉で感じた。喉を滑る水の感触が森の奥を流れる小川の冷たさを思い出させる。 リノアは目を閉じて、その味に一瞬だけ母の笑顔を重ねた。 今日もまた、村での一日が始まる。 リノアは麻の服を身にまとい、手早く髪を後ろで束ねた。母親がいた頃は、いつも小さな手鏡を使ってリノアの髪を整えてくれた。その微笑みと優しい手の感触は今でも忘れることができない。しかし今はもう、そのような贅沢は許されない。 リノアは部屋の隅に置かれた籠を手に取り、扉を開けて外へ出た。 森に囲まれた小さな集落は、木々の緑に包まれ、家々は自然の一部となって息づいている。苔むした屋根は雨と時の流れを物語り、壁を這う蔦が生命の逞しさを表していた。 村人たちはそれぞれの朝の仕事に取りかかっている。 鍛冶屋のカイルが炉の火を赤々と燃やし、その煙が空の青に溶け込んでいる。その光景の先には、杖を頼りに歩く年老いたクラウディアと、いつものように馬の手綱をさばくレオの姿が見える。レオの手際はすっかり板についているようだ。 皆がそれぞれの役割を果たし、
村の広場に足を踏み入れたリノアの目に、不意に小さな物が飛び込んできた。それはシオンの形見だった。広場の端に立つ古い木の根元に、ひっそりと置かれた小さな笛。素朴な木彫りの装飾が施されている。シオンの手作りの笛だ。誰かがそこに供えたのだろう。シオンは幾つも笛を作っていた。 リノアは思わず足を止め、笛を凝視した。胸が締め付けられるような痛みが波のように押し寄せる。 リノアにとってシオンは兄のような存在だった。血は繋がっていなかったが、幼い日々を共に過ごし、母が姿を消してからも、いつもそばにいてくれた唯一の人だった。その優しさと力強さが、リノアの小さな世界を支えていた。 だが、それも今は失われた。つい先日、シオンは突然の事故で命を落としたのだ。悲しみと喪失感が、まるで深い霧のようにリノアの心を覆い尽くしている。 村人たちは「森での落石に巻き込まれた」と口々に言う。 リノアもそう信じていた。最初のうちは…… リノアはそっと笛を手に取り、その滑らかな木の感触を指先で確かめた。冷たい木の表面が、どこか彼のぬくもりをまだ宿しているように思える。 シオンが亡くなったなんて、まだ実感として理解することはできない。 シオンがこの笛を彫り上げた日を鮮明に覚えている。彼は笑みを浮かべながら、ふざけた調子で言ったのだ。 「リノア、これを吹けば、どんな遠くにいても僕はすぐに駆け付けるよ」 リノアは笛を胸に抱き、そっと目を閉じた。心に広がるのは冷たく重い孤独。もうシオンはこの世にいない。笛を吹いても、彼の姿も声も戻ってくることはないのだ。 シオンを失った今、リノアは本当の意味で天涯孤独の身になったのだと実感した。 「リノア、おはよう」 柔らかな声に反応し振り返ると、そこにエレナの姿があった。 エレナはシオンの恋人、村の薬師見習いでもある。少し年上の彼女は、穏やかな瞳と落ち着いた雰囲気が印象的だが、その内面には芯の強さが宿っているのを、リノアは知っていた。「おはよう、エレナ」 リノアは笛をそっと元の場所に戻し、微笑みを返した。その微笑みがぎこちないことにエレナは気づいたようだったが、彼女は何も言わずに寄り添うように隣に立った。「今日も森へ行くの?」 「うん。もちろん」「気をつけてね。最近、森が落ち着かない感じがするから」 エレナの声には心配の色が滲ん
リノアはエレナに別れを告げると、森への道を一人歩き始めた。 村の喧騒が遠ざかり、木々の影が彼女を包む。 籠を握るリノアの手がほんの僅かに震えている。それは寒さのせいではない。母が消え、シオンを失い、一人でこの村で生活する寂しさが心に重くのしかかっているからだ。 幼かった頃に聞いた、あの自然の声が再び聞こえることを、リオナはどこかで期待していた。それが何を意味するのか、どうして私に聞くことができたのか、それがどうしても知りたかった。 リノアは村の外れに広がる森の入り口に立った。 木々の間から吹く風がリノアの頬を撫で、かすかな湿った土の匂いが鼻をくすぐる。リノアは深呼吸し、籠を肩にかけるとゆっくりと一歩を踏み出した。 足元の草が柔らかく沈み、靴底に小さな土の粒が付着する。 森の姿は、いつもと何一つ変わらないように見えた。高くそびえる木々の緑、鳥たちの影、そして淡い光が差し込む薄暗い道。しかしリノアの心には何か引っかかるものがあった。 風の音は高く、耳をかすめるように響き、木々のざわめきにはいつもより鋭さが感じられる。 リノアは母親から教わった道をたどり、薬草の生える場所へ向かった。 木々が密集するその奥には、傷を癒すカミツレや熱を下げるヨモギが静かに息づいている。まるで母の手ほどきを再び受けるような気持ちで、リノアは木々の間を縫うように進んだ。 頭上の枝葉が風に揺れ、陽光がまだら模様を描きながら地面に降り注ぐ。時折、小鳥が飛び立つ羽音が森の静寂を破った。 その瞬間、心にわずかな緊張が走った。森は時として優しく、そして無情だ。リノアは身構え、そして耳を澄ました。 森に流れる音の中に、かつて聞いた自然の声が混ざっていないかと期待したが、耳に届くのは風のささやきと小鳥たちのさえずりだけだった。 あの幼い日に聞いた優しく包み込むような声が、今は遠いものに感じられる。
朝霧が地面を覆い、足元の苔が湿って柔らかい感触を返す。靴が石を踏むたびに、かすかな水音が響き、霧が膝下を這うように漂った。道の両側には畑が広がり、その向こうに森の輪郭が霧にぼやけている。 風が冷たく吹き抜ける中、リノアはシオンの形見である木彫りの笛を手に持ち、指先に力を込めた。笛の表面に刻まれた細かな模様がリノアの肌に冷たく食い込む。 あの時の村の若者たちの悲痛な声。それがリノアの耳に残響のように残っている。確かに森が弱ってしまったら、私たちは、もうこの地で生きて行くことはできないだろう。「クラウディアさん、本当は何か知っているんじゃないかな……」 リノアの息が白く霧に溶け、木々の間に漂う。 リノアの脳裏に浮かぶのは、クラウディアが去っていく姿だった。杖の先端が地面に触れる音が辺りに響き、霧の中へ消えていく後ろ姿。鋭い瞳には、どこか深い思案の影が宿っていた。それが妙に心に引っかかる。「あの言い伝えにある『災い』というのが気になるよね」 エレナが薬草の袋を肩にかけ直し、霧の中を見据えて言った。霧が森の奥へと広がっている。その深みへ吸い込まれるようにエレナの視線が固定された。 エレナは腰に弓を携え、背中には矢筒をしっかりと括り付けている。エレナの弓術は村でも一目置かれており、危険な状況や狩りの場で何度もその腕前を証明してきた。それはエレナの自信と冷静さを支える柱でもあった。 エレナは肩の薬草袋を背中に押し上げると、霧の向こうに向かって歩を進めた。エレナも森の奥に潜む何かへの警戒心が徐々に膨らんでいるようだ。 災いか……。 リノアはその言葉を聞いて胸の奥がざわめくのを感じた。 もし災いが起きたというのなら、シオンがその犠牲者だということなのだろうか? そんなはずはない。シオンは森を愛し、守り続けてきた存在だ。シオンが自然の怒りを買うはずがない。 霧に包まれた小道の両側にはぽつりぽつりと家が建っている。その静かな佇まいは日々の営みの平穏さを物語ったものだ。 この付近の人たちが騒いでいるところを見たことはない。ということは、問題が起きている場所は森の奥深くというのは合っている。まだ危機は村には迫ってはいない。「問題が起きているのは森の奥深い場所。まだ村そのものに危機が迫っているわけではないみたい。だけど時間は限られているんじゃないかな」 リ
リノアとエレナは広場を離れ、森の北の小径へと続く道を歩き始めた。まず向かう場所はシオンの研究所だ。 シオンは村にとって有用な研究を行っていた。村の歴史や伝統だけではなく、自然と科学を融合したものまで多岐に亘る。シオンは多才な人だった。 シオンが残した足跡は、この村だけでなく森そのものにも深く刻まれている。村に生息する動植物の生態系についての深い知識を持ち、その鋭い観察力と独自の視点から新たな発見を生み出していた。特に苔や菌糸に対するシオンの造詣は驚嘆すべきものだった。 苔が水を蓄える仕組みや菌糸が森を豊かにする役割について、シオンが語る様子をリノアはよく思い出していた。シオンはただ知識をひけらかすのではなく、森や自然の美しさ、そして、それらがいかにして命を繋いでいるかを人々に教え、分かち合っていた。「森の声に耳を澄ませるんだ」 シオンは子どもたちや若者たちにそう言って微笑んでいた。その教えはリノアの心の中にも深く根付いている。そして今、シオンがいない村でシオンの言葉がどれほど重みを持つか、リノアは改めて感じていた。 リノアは霧の中を見つめ、胸に抱える思いを整理しようと試みた。 シオンが森の異変に気付いていたことは、シオンの記録や話の端々からも明らかだ。そのシオンが抱いていた憂いと覚悟……。 森が何かを伝えようとしている——その確信がシオンにはあった。しかしシオンが森の異変に対してどのようなアプローチを試みていたのか、その全貌はまだ明らかにされていない。 現在、シオンの研究ノートはエレナの手元にある。しかしエレナはまだそのノートについて詳しくリノアに語ったことはない。ノートに記された難解な数式や図形、断片的な文章——それらが森の異変とどう関係しているのか、エレナ自身も完全には把握しきれていないからだと思う。 リノア自身もシオンの研究ノートに記された内容について、特に関心を示すことはなかった。 シオンが生きている時、シオンの熱心な研究を尊重してはいたが、森に深く足を踏み入れることは避けていた。森は特別な領域であり、リノアにはそれがどこか神聖なもののように感じられていたのだ。しかしシオンが亡くなったその瞬間から、シオンが愛し、そして守り続けた森の存在がリノアの胸に大きな影を落とした。 静かで温かなシオンの声がもう聞けないという現実の中で、リノア
リノアの眉がかすかに動く。クラウディアはゆっくりと頷いた。「ああ、だがその意味を完全に解き明かした者はいない。ただ、私が幼かった頃、一度だけ森が弱ったことがあった。その時、人々は村を護るため儀式を行い、結果的に森は持ち直した。しかし……今回の異変はあの時とは何かが違う。より深い、より根源的な力が関わっているような気がしてならない」 クラウディアの言葉は広場の静寂の中に染み渡り、リノアとエレナの背筋を冷たいものが這うように震わせた。「根源的な力?」 リノアの問いかけに、クラウディアの表情が一瞬だけ険しくなった。彼女は低く静かな声で応えた。「そうだ。生命力を凌駕した、もっと古く深い力……」 クラウディアの視線が遠くの森へと向けられる。その瞳には、一種の畏敬と懸念が混ざり合っていた。「森が泣く──その時、私たちは選ばなければならない。自然と調和する道を進むのか、それとも破壊の道を辿るのか」 クラウディアの言葉に込められた重みが、リノアとエレナの胸に深く響いた。「つまり、その『根源的な力』が異変の原因かもしれないということですか?」 エレナが小さく息をつき、慎重に口を開く。「恐らくな」 クラウディアは一瞬黙った後、ゆっくりと頷いた。「私たちはそれを見つけます。森の声を聞き、その答えを必ず探し出してみせます」 そう言って、リノアはエレナと目を合わせた。「シオンの死がその始まりなら、お前たちが見つけるしかない。シオンと関係の深い、お前たちなら、きっと遣り遂げることができるだろう。リノア、エレナ、私はお前たちの勇気を信じている」 クラウディアは微笑みながら二人の決意を受け止めるように言葉を返すと、静かにその場を後にした。クラウディアの背中が霧に溶け、広場の静寂と共に消えていく。 森の奥から風が吹き抜け、冷たい空気が二人の頬を撫でて行った。まるで森そのものがリノアとエレナの決意を確かめるように。「根源的なものって何だろう……」 リノアがふと呟いた。その言葉は空気に溶けるように静かだった。「森の奥に行ってみようか。シオンがいた場所に何か手がかりが残っているかもしれない」 エレナは広場の端に目を移した。 森の奥深くに足を踏み入れることは殆どなかった。森の植物は十分に育ち、薬草を採るにも奥まで入り込む必要はなかったからだ。行く人と言えば、森
村人たちとの遣り取りを遠くから眺めていたクラウディアがリノアとエレナの前に歩み寄り、若者たちに向けて口を開いた。「よしなさい。二人を責めて何の意味がある。儀式は終わったんだ。もう帰りなさい」 言葉は穏やかだが、その言葉には威厳が含まれている。反論できる者などいるはずはない。村人たちは一礼して、その場を去った。 広場に漂っていた重苦しい空気が徐々に解けていく。夜風が頬を撫で、静けさが戻った。「リノア、エレナ。みんな不安で仕方がないんだよ。許してやっておくれ」 クラウディアはリノアとエレナに向き直り、優しい笑みを浮かべた。 クラウディアの言葉にリノアは胸に抱えた緊張が少し和らぐのを感じた。「私たち、『龍の涙』の謎を探ろうと考えています」 リノアはクラウディアの目を真っ直ぐに見据えながら言葉を放った。 クラウディアの鋭い瞳がリノアを捉えた。その瞳には何かを測るような光が宿っている。短い沈黙の後、クラウディアは静かに口を開いた。「覚悟はあるのかい?『龍の涙』には、ただの力ではないものが宿るとされる。命を懸けることになるかもしれないよ」 リノアとエレナは互いに目を合わせ、力強く頷いた。「森が弱ってる。私、感じるの。何か悪いことが起きようとしてるって」 リノアの言葉を聞いたクラウディアは静かに目を閉じ、長く思案するように黙り込んだ。その後、彼女はゆっくりと目を開け、視線を祭壇へと移した。「森の異変には気づいている。ここ最近、長老たちの間でも議論が絶えなかった……。だが、お前たちがその謎に迫る意思があるならば、私は止めるつもりはない。ただし、その先にある真実が優しいものとは限らないことを決して忘れるんじゃないよ」 長老たち……。長老は各、村に一人しか存在しない。ということは他の村にも異変が起きているということだ。「クラウディアさん、何か知っているのですか? 昔の話でも良いから教えて頂けませんか」 リノアはクラウディアを真っすぐに見据えて言った。 クラウディアは一瞬、黙った後、低く落ち着いた声で語り始めた。「古い言い伝えにはこうある。『森が鳴く時、世界の均衡が揺らぐ』と」「森が……鳴く?」
「儀式は終わったけど、みんな落ち着かないね」 エレナがリノアの肩に触れて言った。「エレナ……。皆の気持ち、私にも分かる気がする。私も何だか元気になれなくて。皆に安心してもらう為には、私がもっとしっかりしてなきゃいけないのに」 リノアの声には、焦りの感情が滲んでいる。「リノア。まだ始まったばかりよ。リノアが前を向いているところを皆はちゃんと見ているから、村の皆も力を貸してくれるはずよ」 そう言ってエレナは優しく微笑んで、リノアの肩に触れた手に少し力を込めた。「ありがとう、エレナ」 リノアの笑顔を見て、エレナが頷いて応えた。 心の中には、まだ迷いが残っている。しかしエレナの言葉に少し救われた気がした。一人で背負い込む必要はない。 リノアは心を落ち着かせようと思い、大きく息を吸って視線を広場から夜空へと向けた。 瞬く星々の光がシオンとの思い出を呼び起こす。 シオンならきっと、こうやって村全体が一つになれる方法を模索したはずだ。リノアはシオンの背中を思い出しながら、夜空を見つめ続けた。──このままじゃ収拾がつかなくなる。私たちで何か始めないと。 視線を落とし、思いつめた顔をして地面を見つめていると、突然、大きな声が広場に響き渡った。「祈ったって何も変わらねえよ。川の水が減っていたのを見ただろ!」 声の主はヴィクターだ。彼の勢いある言葉に子供たちの足が止まり、母親たちは不安な顔で若者たちを見つめた。広場に緊張が走る。「シオンが死んでから何か様子が変なんだよ。おい。リノア、エレナ、お前ら何か知っているんじゃないのか」 ヴィクターの鋭い視線がリノアを捉える。その声には、不安、疑念、そして怒りが入り混じっている。 何か話さなければならない。そう思えば思うほど、言葉は喉の奥に引っ掛かって出てこない。ヴィクターの威圧的な態度に、リノアはその場に立ち尽くした。 シオンの死と森の異変が、ここまで皆を追い詰めているなんて……。 張り詰めた雰囲気の中、エレナが一歩前に出た。「落ち着いて。何ができるのか、私たちも考えているところなの」 エレナの穏やかで落ち着いた声が、緊迫した空気の流れを変えていく。 村人たちの視線がエレナに移る。 エレナに続いて、リノアも一歩前に出た。「私たち、森を守りたいと思ってる。だけど、まだ原因が分からないの」 リノア
リノアとエレナの衣装の美しさは他の村人と比べて際立っている。ドレスは精霊の祝祭を象徴する金色と赤色で彩られ、裾には様々な精霊を模した刺繍が施されている。髪は金色のリボンで束ねられ、花冠のように小さな花々が飾られていた。 今日は彼女たちが祭りの象徴なのだ。 広場のあちこちにテーブルが並べられ、村の味を伝える料理が山盛りになっている。パンの香ばしい匂いや果実の甘い香りが漂う中、果実酒の瓶が次々と開けられ、グラスが楽しげに揺れる。村人たちは料理を囲みながら冗談を言い合い、そして大きな声で笑い、時には昔話に花を咲かせた。 その中を元気いっぱいに駆け回る子どもたち。一息つく間もなく食べ物を手に取って口に頬張っては、満面の笑みを浮かべている。はしゃぎすぎた子どもが転んでも、すぐに立ち上がって走り回るその姿は微笑ましくもある。 笛の音色や太鼓のリズムに合わせて村人たちが身体を動かす。踊るだけではなく歌い出す者も現れ、広場の熱気がさらに高まった。 夜空の下、揺れる灯りが照らし出すのは、満ち足りた笑顔と一体感に包まれた村の光景だった。 広場の片隅で、リノアは村人たちの動きをじっと見つめた。皆、笑顔を浮かべている。しかし、その表情にはどこか張り詰めたものがあると感じた。明るく振る舞ってはいるが、誰もが心のどこかでシオンの死を引きずっているのだ。悲しみを抱えながらも明るく振る舞うその姿は健気でありながらもどこか痛くもある。 これではシオンも心の底から喜ぶことはできないだろう。「シオンの奴、祭りに参加できなくて残念に思ってるだろうな。どうして突然、死んでしまったのかね」 年配の男性、マティアスが果実酒を飲みながら、近くの友人に言った。「本当にな。でも、あれほどまでに祭りを望んでいたんだ。シオンの分も楽しまなきゃ」 友人が答えた。 シオンの親友で村のパン屋を営むマルコは、祭りのテーブルに村一番のパンを並べていた。彼も笑顔で人々にパンを配りながらも、心のどこかでシオンの不在を感じているようだった。 若者たちのグループでは、アリシアが陽気に一人で踊っていた。アリシアは私の幼い頃からの親友だ。「アリシア、その踊り、素敵だね。シオンが見ていたら喜んでたと思うよ」 友人の一人が言った。「ありがとう。シオンがいなくなって寂しいけど、悲しむ姿を見せたくないの。前を向いて
太陽の光が村を柔らかく照らす中、広場には巨大な樹木が描かれた布が掲げられ、その周りには花や果実が積み上げられている。陽光は色彩豊かな花弁や果実の表面を照らし、まるで自然そのものが祝福を捧げているかのようだった。『精霊の祝祭』は一年に一度、村を挙げて行われる。過去を継承し、想いと共に未来を託す、大切な祭りだ。 祭りの音楽が始まると、風情あふれる旋律が空気を震わせた。哀愁漂う笛の音色や打楽器の軽快なリズム、清涼感のある木管の楽器が一つになり、村全体を包み込んでいく。 その音楽は村の伝統と未来への希望を内包したものだ。 笛の音が高らかに響き渡ると、村の伝統的な舞である『精霊の舞』が始まった。笛の音色に合わせて、村人たちが一斉に踊り出す。子どもから老人まで誰もが知るこの舞は自然への恩恵を表現し、世代を超えて受け継がれてきたものだ。 リノアは舞いを見つめながら、心の中でシオンと語りかけた。──シオンが守りたかったこの村の伝統、今年もこうして続いているよ。私も、できることをしていくから…… 村の男たちは、粗く織られた長めの上着と膝丈の刺繍が施された麻のズボンをまとい、力強く地に足を踏みしめて伝統の舞を披露している。踊りや歌を通して村の歴史を語り継ぎ、自然への敬意を示しているのだ。 赤や青の色鮮やかな帯が風景に溶け込み、印象深い存在感を放っている。 女性たちの衣装は男性と比べ、大胆さは影を薄めているが、反対に色彩と細部で際立っている。レースや刺繍が施された服は動きに合わせて軽やかに揺れ、花が咲いているかのように華やかだ。 手元にはフリンジや刺繍、巧みに編み込まれた髪には花やリボン、胸元には金や銀、ブロンズのネックレスが優雅に輝き、全身が優雅に彩られている。 衣装を太陽の光の下で輝かせることで、自然の恵みに感謝の心を表しているのだ。「リノア、シオンの代わりをよくやってるね」 クラウディアの温かな笑顔と落ち着いた声が、リノアの心に僅かながら安心を届ける。クラウディアはこの村の長老だ。「ありがとう、クラウディアさん。兄の代わりが果たせるのか少し不安だけどね」 リノアは正直に答えた。 クラウディアは他の村から嫁いできた。長い年月を掛けて村人たちからの信頼を勝ち取り、長老の座に就いている。 この村の人たちは個性豊かな面々が揃っており、長く生きて来たから
村人たちのざわめきがやがて風の音のように薄れ始め、やがて静けさが広場に満ちると、リノアはゆっくりと小さな布包みを取り出した。包みを解く手が微かに震えている。 そこに現れたのは一粒の種子だ。それは森で見つけた不思議な種子とは異なり、淡く光るわけでもなければ、熱を帯びるわけでもない。 祭壇に捧げるための素朴な種子だ。その素朴さが儀式の長い伝統と村の歴史を象徴している。 リノアは種子をそっと摘んで、水が張られた青銅の器へと落とした。器の水面に静かな波紋が広がり、水が微かに揺れる。太陽の光がその波紋に反射し、祭壇の周りに小さな光の輪を作り出した。 息を呑んで見守る村人たち。静けさが辺りを包み込んでいく。 水面に浮かぶ種子を見つめながら、リノアはシオンの言葉を思い出した。「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが、誤れば破壊を招く」 この言葉が指す意味は何なのか。私たちはそれを知らなければならない。 クラウディアが杖を地面に突き、低く厳かな声で祈りを始めた。「自然よ、我々に恵みを。森よ、我々を守り給え。古の力よ、我々に力を」 クラウディアの声が広場に響き渡り、村人たちが次々に手を合わせ、祈りの言葉を口にした。 その場の空気は緊張と期待に満ち、何か大きな変化が訪れようとしている感覚を漂わせている。 リノアとエレナも目を閉じて祈りを捧げた。二人の祈りの言葉が風に溶け、村人の祈りと重なり合う。 私たちを良く思ってくれている人たちもいる。私は一人ではない。 リノアは目を開け、祭壇の前で背筋を伸ばし、正面を見据えた。 クラウディアが二人を見つめ、杖を地面に突いて言った。「儀式を終えよう。リノア、エレナ。誓いの言葉を」 リノアは深く息を吸い込み、エレナと呼吸を合わせ、一緒に言葉を紡いだ。「我らは誓う。自然への敬意を忘れず、この村と森を守り抜くことを。先人たちの想いを受け継ぎ、未来に光を繋げます」 その声が静けさに満ちた広場に響き渡る中、村人たちは一斉にこうべを垂れた。 その仕草は儀式への敬意が感じられる。しかし、それは表向きの姿であり、本心は別にある。心の奥底に潜む疑念は、そう簡単には拭いきれるものではない。 静寂の中、風がそっと吹き抜け、朝霧がゆっくりと薄れて行った。霧が広場を低く漂いながら動き、周囲の木々がその風に応じてかすかに揺れる。
リノアはエレナを探しながら集団に目を走らせ、村人たちの表情を一人ひとり観察した。顔の表情で大体、察しは付く。 私たちのことを良く思っていない人たちは、頬を上げて笑っているように見せていても目は笑っていない。 エレナは広場の端に立っていた。その落ち着いた姿は不思議と彼女を周囲から浮き上がらせる。喧騒の中でもエレナの存在だけが際立ち、時間がエレナの周りだけ遅れて流れているかのように見える。 若者がエレナに近づき、耳元に顔を近づけた。儀式に参加するという予想外の知らせを聞いたエレナは一体、どのような反応を示すのだろうか。 リノアはその様子を見つめながら、役割を託された日のことを思い出していた。私にその役割を担う力があるのか、村人たちの期待を裏切ることになるのではないか。不安が胸を締め付けた。 一瞬、驚きの表情を見せたエレナは、すぐにこちらをまっすぐに見つめ返し、静かに、そして力強く頷いた。揺るぎない覚悟が垣間見える。 リノアはクラウディアの横顔に目を向けた。この村に何か大きな危険が迫っていることをクラウディアは既に察しているのだろう。きっと私たちの為を思っての行動だ。一人より二人の方が安全だと思って……。 エレナが近づいてくる間、リノアは祭壇の前で佇みながら、村人たちの視線を背中に感じた。ざわめきが背後で広がり、断片的な声が耳に届く。「あの二人がシオンの代わりか……」 その声は疑念と不信が入り混じったものだ。中には蔑んだ目を向ける者もいる。 エレナが隣に立ち、リノアはエレナと視線を交わした後、正面を向いた。そのわずかな仕草だけで、心の奥底で意思が通じ合っていることが感じ取れる。言葉は必要ではない。 肌に貼りつく感覚を覚える中、リノアは手に力を込めた。これから二人で村を守って行かなければならない。 村人たちのざわめきが次第に強まり、広場を覆い始める。「シオンが死んでから森がおかしくなったんだ。何かの呪いじゃないのか?」「森が弱ってるって聞いたが、本当なのか? 木が枯れるなんて聞いたことがないぞ」 村人たちの不安が波のように広がり、次第に動揺へと変わった。 それでもリノアとエレナは祭壇の前にまっすぐ立ち、揺るぎない視線を前方に向け続けた。私たちが動揺するわけにはいかない。 村人たちのざわめきが風のように流れる中、リノアとエレナの立ち姿が、